Voice of Tohoku

ある被災地の様子

今から数週間前、【ビタミン計画】のお野菜支援の件でお電話した際に伺った、ある被災地の様子を紹介致します。多分半分くらいしか書き表せないと思いますが、 (まだ、自分の中で全部消化できていないのです) 震災から5カ月目、一つの節目として記録に残すことに致しました。

“……確かに瓦礫は片付いてきていて、その事には大変感謝しています。でも、気持の部分で良くなったと実感することができないんです。例えば、最近になっても、この辺りでは、DNA判定結果によって行方不明だったご家族の死に直面している人達がいる。この時期の身元不明のご遺体は、手とか足とかの身体の一部か、火事で真っ黒焦げの状態。それら誰とも区別のつかない画像で「鑑定の結果、こちらがあなたの家族と判明しました」と通知される。こういう人達が自暴自棄になっていくのをどうやって止められるでしょう? せっかく津波を逃れ生き残った命。「もうこれ以上、一人も死なせてはいけない!」 と思うけど、彼らとどう接していいか分りません。

震災後、『家が残っている』という理由で、支援の対象から外されてしまった。「何とかしないと、近所みんな飢え死にしてしまう」と物資調達に奔走。ずっと気が張っていたからここまでやってこられたけど、この緊張感がいつまで続くのか、自分でも不安になる。いつかプツンと切れてしまうのではと……。

 心の問題-子供達のこと- 

最近、何となく我が子の様子がおかしい。学校から帰ってきて、ぼんやりしていたり、些細な事で怒るようになったり。小学生の下の子が忘れ物をした時に、先生が怒った言葉は、「津波のせいにするな!」(そんなこと一言も言ってないのに……)以来、学校を休みたがるようになってしまった。中学校でも「津波を乗り越えろ! 来年の高校入試は、合格ラインを引き上げることに決まった」と。子供たちに、そんなに早く気持ちの切り替えを求めるのは酷ではないか。

上の中学生の子供は、震災当日、町(家よりも海に近い)で友達と遊んでいた。迫り来る津波から夢中になって逃げた。自分のすぐ後ろの人が流され、「たすけてー! たすけてー!」と狂ったようにクラクションを鳴らす車が波に飲み込まれるのを目の当たりにした。

瓦礫が積み上がり、基礎がむき出しになった通学路。子供たちは、毎日、あの日の残像に苦しめられながら学校に通う。

一方、先生も相次ぐ転校手続きやその他の仕事に忙殺され、追い詰められている。ある日突然、教室では公開裁判のような事が始まる。「先生は知ってい ます。友達の陰口を言う人は、この場で堂々と言いなさい!」驚いて生徒達が泣き出したと思ったら、先生も続けて泣き崩れたという。

(町の人達は、全員が大きな精神的ダメージを受けている。そして、子供など弱い者が、時として、そのストレスのはけ口になっているのだろう等と想像はしてみるものの、果してこれに対して有効な解決策があるだろうか……? 自分は今のところ思い浮かばない)

3.11。津波と火の海で一夜にして変わり果てた町。夜が明けると、肉親を求めて人々が通りに出てくる。住み慣れた町なのに少し歩くと、もう何処にいるのか方向感覚さえ失われて眩暈がする。「あれは、本当に地獄絵です。大人だって決して忘れられない。子供達の心がどれだけの傷を負っているか……」

兼ねてから気になっていた事がある。大変失礼な質問だと知りながら、思い切って聞いてみた。
「どの地域でも、もうここには住めないと出て行く方と、ここでしか生きられないという方がいるようです」
(確か、ここの町民数も震災以降3,000人以上減少している)
「出ていく事は想像できないですね。ここの人間は、口は悪いけど本当にあったかくて。一つ隣りの町でさえ暮らせない。自分達からすると人間関係がドライで……」
「実際に近隣の方は、全て残っていらっしゃるようですね。つらい記憶があってもそれを上回る思い入れのようなものがあると……?」
「そうです。だから町の其処にあった思い出の場所が全部津波で無くなってしまったのが本当に、本当につらいのです。今でも信じられない……」

 防災体制に欠陥? 

震災が起きてから分った事だが、役所が指定した避難場所は、ほぼ全て津波に対して有効ではなかった! ある地区の避難場所は、居住区との間に細い水路が存在する。当日は、そこを伝わってきた波に、住民と避難場所は分断された形となった。また、別の場所で避難所として指定されていた神社(または寺)。そこは何と、背後に崖がつづき高台となっている。その高台に登った者もいた。上から、「そこでは波が来ちゃうよ。上がってこなきゃだめだ!」と叫ぶが、パニックで頑なになった人達は動こうとしない。「ここが町から言われた避難所だ!」ほどなくして、上の人間が悲痛な思いで見守る中、全員が建物もろとも波に飲まれていった。

3.11以降も大きな余震が続いた。住民達は、至急もっと高い所に避難場所の指定を変更するように求めたが、役所は全くとりあわなかったという。また、この町の防災放送は、ちょっと中心部から離れると放送内容がまともに聞こえないのだそうだ。これも震災前から、「何かあったらどうするのだ」と役所に対応を求めてきたが、そのままで3.11を迎えることとなった。

震災当日。「防災放送、何言っているんだか聞こえないよ! と役所に電話したんです。すると、すみません、兎に角逃げて下さいと言って切られました。沢山同じような問合せが来ていたようです」
テレビを点けて津波警報が3mなのを確認し、思わず声が出た。
バカ言っちゃいけない。こんな大きな地震、3mで収まる訳ないじゃないか!
すぐに避難行動に移った。家を出る時、子供を探しに町中方面に(避難方向とは逆)向かいたい気持ちをグッと抑えた。(実際それをやって亡くなった方もいる) 昭和三陸津波(1933)を経験した祖母に、津波がどこまで到達したか、どこに逃げるべきか聞いていたから、子供達にも逃げる場所を徹底していたという。(絶対に逃げているはずだ。今はそう信じるしかない!) 避難方向に足を速めた。結果、家族は(それぞれ別の場所で)全員助かった。

「今回の震災で、みんな沢山大事なことを学んだんです」家族がいかに大事な存在か……。身内を亡くし、義捐金の支払いを受けても「お金はいらない。死んだ家族を返してほしい」と嘆く人が一杯いる。「もっと普段優しくしておけばよかった」 という人も。また、人間は本当に忘れっぽい生き物なのだという事にも改めて気づかされた。この町には、過去に何度も津波が来ていたのに、自然の脅威を甘く見ていたのだ。人災だったと考えられる部分も沢山ある。

「生き残った人間は、この大惨事を語り継いでいかなければと思います」

大変悲惨な内容であったにも拘らず、この方は終始前向きな様子で話して下さいました。絶望の淵から立ち上がった人の強さに触れ、支援活動をしている私の方が勇気付けられてしまったようです。
「人間は、どんな厳しい状況でも『希望』があれば生きていける」ある社会活動家の言葉です。私にとっては、「少しでも自分達の状況を良くしよう!」と日々懸命に生きている被災地・東北の人々が『希望の光』です。