2012年4月16日月曜日

【第8弾】【第9弾】二人の代表の横顔/木村研太

「陸の方を見たら、山の木がわさわさ揺さぶられてるんだ。それで絵の具を撒いたような黄色いモヤが山全部を覆ってるんだ。スギだよ。花粉さぁ。」


思いがけない話が飛び出して来た。
3月31日。場所は、女川町桐ヶ崎の仮設住宅の集会所である。


いつものように、手分けして野菜を一軒ずつ配り、集会所へお茶っこのお誘いをしたのだが、今回集会所へ出向いてくださる方はとても少なかった。
無理もない。この日は風と雨が断続的に叩き付けてくる、生憎の空模様だった。


今回、初めて他の団体と鉢合わせをした。
仙台のキリスト教会の慰問チームとのこと。
不定期だが、継続して慰問を行っているらしい。
そう言えば、去年の秋口、南三陸の個人宅の片付けのお手伝いをしていた時、個人宅を訪問するキリスト教会のチーム(同じではないと思うが)と出会したことがあったけ。


3つの「団体」で、しばしの談笑。


賑やかに彼らが集会所を去っていった後のこと。
桐ヶ崎の方達と我々が、少ない人数をさらに小さなグループに割ってお話をしていた時のことだった。


集会所の南側の窓を覆うように貼ってあった「地図」が、集会所に入った時から気になって仕方がなかった。
「これは移転計画……ですか?」
「そう。これでね、もう決まりだから。」
仮設の代表であるSさんが、嬉しさが少し混じった表情で答えた。




場所は、この仮設からあまり離れていない西側を示していた。
だが地図のように開けた場所は存在しない。
「そうそう。山(スギ林)を開いてね。」
北から南に向かってほぼまっすぐの道。その両脇を家が整然と並ぶ格好になる。 等高線の引いてあるその地図を見ると、地形の状態からその並び方になるしかなさそうだった。
「これでもう決定。でも着工は来年かも。」


話し合いをいつまでも引っ張っても結論は出ないから、と言うSさん。
でも、ここで漁業を続けていく人、出て行った人、出て行くかもという人、そして他の様々な条件を加味した上での(数多くの)話し合いと決定だっただろうことは想像に難くない。


自分は、人の話を聞いている時、話の内容よりその人の顔や表情ばかりやたらと気になってしまうクセがある。
そして、震災以前も以後も、数多くの決定を下してきたリーダーの顔がそこにあった。


「水の下の方から妙な音が聞こえてきたんだよ。」


Sさんの顔に気を取られていたためか、話し好きのSさんの話の展開が早いためか、話題がいつの間にか変わっていた。
地震が起きた時、その瞬間の話であった。


その時Sさんは、桐ヶ崎港を出たすぐ先の海上で、船を使った作業をしていた。
地震の時、海面も揺れる。これは珍しくない。
しかし、海の下からの異様な音や、山側の「黄色いモヤ」を見て、「これはいつもと違う!」と感じたそうだ。
慌てて船を港につけ、港のフォークリフトをやや高い場所に移動させ、自宅に一度引き返す。
「どういうわけか、免許証を取りに行ったんだ……」
そして高台に逃げ、40分強で津波がやってきたという。


集会所に、震災前後に撮られた航空写真があったため、それを指し示しながら説明が続く。
「ここの高台の神社が何人か逃げ込んた。水は来たみたいだけど無事だったよ」
「この大きい二棟だけが一応残った。一棟はウチの作業場で、今はとりあえず倉庫に使ってる。ウチ(Sさんの家)は壊れずにこの辺まで流されてた」
「港(桐ヶ崎)では、船は2、3艘残ったっきりで………フォークリフトもやられた」


生々しい体験談を聞きながら、身体も心も何とも言えない緊張感で、頷いたりするのが精一杯だった。
こういう訪問の時は、地震や津波の話を被災した人達にこちらから持ちかけないように、いつも心がけていた。
当然心情を慮ってのことであり、また現地の人全てが語り部をしてくれるワケではないからである。


「桐ヶ崎は、ゼロだったんだ。もう何度も何度もリストを見ては人数確認してまた確認して、やっと死亡者ゼロだと分かったんだよ」


最後に、これはもう本当に今まで聞きたくとも聞けなかったこと………であった。
無論、ご親戚や他の集落の人達が無事でないこともあるだろうことを考えれば手放しで喜べるはずもなく、自分は「そうだったんですか…………そうだったんですか。」と、ただひたすら頷くのみだったのである。


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明けて4月1日。
場所は、気仙沼市本吉町。
ここに住む人達はこの辺りを「小泉」と呼ぶので、我々もそれに従い「小泉」と呼んでいる。


「なんか年取った顔になったな」
開口一番、代表のOさんが自分(木村)に放った言葉である。
ええ?っと思ったが、よくよく考えてみたら3ヶ月ぶりに会ったのだから無理もないかと思ったが、さらによく考えてみたら、たったの3ヶ月なのである。フクザツなのである。


少し前にOさんが入院して手術を受けたと聞いていた。
そのせいか、Oさんはちょっぴりシャープな顔つきになっていた。
「今カギ開けるから」
敷地の奥側に見える建物、そうついに集会所が出来たのである。




早速、野菜の箱を集会所に持ち込み、仕分けを開始する。外はまだ肌寒いし、床に直置きできたり、座れたりできる場所というのは本当に有り難いものである。
仕分けをしながら、(失礼ながら)集会所の中をじろじろと見回す。
まだ、空調以外何もない畳敷きの一室だ。水廻りの設備はない。
「テレビとかテーブルとか座布団なんかも届く予定だ。でも細かい湯のみの類いなんかは自前」


この集会所を建てる運動を、Oさんはもう何ヶ月やってきたのだろうか?
一定の世帯数以下では集会所は作られないという規則を、Oさんは「チカラ技(同級生の議員さんなどのコネ)」も駆使しつつとうとうそれを突破してしまったのである。
「みんなが集まるところがないと駄目なんだ!」
こう言って、ひたすら役所を説き伏せてきたそうである。


「畳も頼み込んで敷いてもらった。言わねぇと役所はホントに何もやってくんねぇんだ。トイレの電気もそうだ。夜会合した時どうすんだって、そこから説明しなきゃ分かんねぇだから」
実は、この集会所のトイレは、工事現場によく置かれているアレなのである。 上下水の工事はどうやら行われないらしい。


他の人達もぼちぼち集まり始めた。
沢山入ってきたわけではないが、すぐにこの集会所の狭さが実感できる状態になってしまった。
畳を縦にして3枚を3列の縦長のレイアウト。9畳である。
ここの入居者の会合を想像してみる。
どう考えてもテーブルは入らないだろうし、場合によっては人間も外で立ち見になるかもしれない。


「広げるとしたらね、この建物をもう一個分持ってきて繋げるしかないねえとさ。そしたら、役所が『(手前の)駐車場スペースがなくなっちゃいますよ』ってさ。裏が少し空いてるから、そこまでこの建物を移動してそれから足せばいいだろうって、また説明して……」
Oさんの格闘はまだまだ続きそうである。


事業計画書という「図面」を引きながら、予算を加味して可能な限り状況に対応していくしかないだろうし、日々新たに現出する問題にも取り組まねばならない。
行政側も相当な痛手を被っていて人手が足りないだろうし、行政側を一方的に悪く言うのはフェアじゃないだろう。


そして、被災された人達にとっては、窓口はそこにしかない。
Oさん達にしたって、勝手に自分たちにいいように集会所を作ってしまうワケにはいかないのである。


ここにせめぎ合いがある。


行政サービスに血を通わせるのは本当に大変なコトだし、サービスを受ける側も唯々諾々と享受するだけとはいかないケースも多い。
Oさんの話を聞いていて、自分を取り巻く環境に対して問題を問い続ける重要さや難しさを、しみじみ感じた。


「今度さ、みんなで近くの山に遊びに行くことになったんだよ。ビタミンのみなさんも一緒に行こうよ。ここ(集会所)でおにぎりとか作っとくからさ、お昼にそれを食べようよ(笑顔)」


そう、問題があろうがなかろうが、ここにも春が来ているのである。
思いがけない嬉しい申し出であった。



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