2011年7月11日月曜日

ご支援金の途中集計など

今日で、震災から4ヶ月目ですね。
この活動を始めて沢山の東北の方とお知り合いになりました。
皆さん、「もっと多くの人に私達の状況を知ってほしい」と仰います。
ビタミン計画、微力ではありますが、震災を風化させないためのお役目も担っていけたらと思います。
本日は、当計画の賛同者様で、今月初め南三陸に行かれた方のボランティア体験記をご紹介します。ちょっと長いですが、会話がメインなので一気に読めます。そして、読み終わったら元気になっていること請負います!

【ご支援金の途中集計】
本日、11日を募金の日としてお願いしたところ、沢山の方にご協力頂きました。誠に有難う御座います。
今月の募金額の総計は、19時時点で171,580円です。今月はぜひとも、岩手県山田町を含む計5回のお届けを実現させたいと存じます。その場合、目標額まで約7万円です。引き続きご支援の程宜しくお願い致します。

【現場の声で綴る被災地ボランティア体験】
7月1日(金)PM23:30頃 東京駅 八重洲口近辺にて

「こんばんは〜」

「あっどうもこんばんは〜。ご苦労様ですぅ。」

観光バスに乗り込む面々。約30名。

フツーの挨拶を交わしているが、目的地は非日常が100日以上続いている場所。

7月2日(土)AM00:00頃 出発

7月2日(土)AM00:30頃 バスの中 首都高速道路上にて
レーベンコーポレーション社社長からの挨拶と説明。
「実は水曜日から現地のボラセン(ボランティアセンター)と連絡が取れていないので、作業内容が把握できていない状態なんですよ……」
「!」
(でも復旧が遅れていると聞いていたので、やることは山ほどあるハズ。)

今回のリーダーとサブリーダーの挨拶。
リーダーからスケジュールと注意事項の説明。
「被災地と被災された方に、敬意を持って作業させていただきましょう。彼の地の方々にとっては、『被災地』ではなく、ご自分達の『ふるさと』ですから。」
「また被災された方のお話を聞く機会がある場合は可能な限り聞いてあげてください。」

自己紹介からいくつか。
「宮城出身なので……」
「レーベンさんのボラバス(ボランティアバス)は△回目だけど、それ以外と合わせると◎回目です」
「大阪から来ました」
「普段デスクワークなのでご迷惑をおかけしないように頑張ります」
「60歳年金生活者です」
「会社経営者です。社内でもボランティア気運が高まっています。まずは自分から経験してみることに……」
色々な人たち。色々な理由。
今回は男性率が高めか。

AM07:00頃 登米市近辺のコンビニにて朝飯兼昼飯購入
「電柱が曲がってる……」
電柱がそれぞれ微妙に傾いている。
家並みを見ると、特に瓦葺きの屋根には顕著にダメージが。

AM08:00頃 国道398号線(本吉街道)で南三陸町に入る
「…………………………」
(一瞥してもう声が出なくなる)
港に近づくにつれ、瓦礫の量は爆発的に増えていく。
『元建物』としか言いようのない鉄骨だけになった3階建てのビルが見えてくる。
「最後まで女性が災害アナウンスをやっていたっていうのはここだな……」
レーベン社社長がつぶやく。

『激甚災害』という言葉をようやく思い出す。

AM08:00過ぎ(正確な時間は失念) 国道45号線(東浜街道)を抜けて地元体育館へ
ここの敷地に設置されたボラセンへ到着。ここでボランティアの仕事の振り分けをしてもらう。
受付から帰ってきたレーベン社社長が一言。
「ちょっとスーパーハードみたいです……」
重機で道の整地等はある程度済んではいるが、民間のボランティアが入るのは今回がほぼ初めての場所らしい。

着替えると、ボラセンで用意されていたライムイエローのビブスが配られる。
「おでってさ来ました!」
背中に堂々たる文字。

AM09:30過ぎ ボラセンを出発(近場までバスで移動)

AM10:00少し前 現地に到着
宮城県本吉郡南三陸町歌津字寄木、これが地名。
「みなさんご苦労さまです」
区長さんが挨拶に来てくれた。

この集落には46戸の住宅と港の施設がいくつかあったが、35戸が全壊および半壊。
港の施設も自分が見た限りでは、壊滅してしまったようだ。

我々が担当した場所は、民家数軒のあった場所と数枚の水田。
基本的に瓦礫を撤去し、燃えるものと燃えないものとに分別して集めること。
瓦礫といってもありとあらゆるものが散乱している。
生活雑貨、家電、家屋、建物、船、船具、漁具、電柱、古いモーターやバッテリー(修理工場のものか?)………町を構成するもの全て。

特に驚いたのは、水田の中に散乱していたアスファルトだった。
地震で緩んだ後、津波で道路から引きはがされたアスファルトが、1〜2m程のサイズに引き千切られ、おそらくは津波の最中に家屋などを粉砕してしまったのかもしれない…………とこれは自分の勝手な推測。

引率のボラセンの方から、注意事項。
「頑張り過ぎないでください。ゆったりやる感じで充分です。」
リーダーからも。
「暑い季節に入ってきているので、30分に一度休憩を入れます」
これらの言葉の意味を、すぐに身を以て知ることになる。

二手に分かれて作業開始。

そしておよそ30分後に休憩。
『フラフラ』なのか『ボー』なのか、どちらかも良く分からない。
覚えているのは、レーベンさんで用意していただいた大量のペットボトルの水(それも極冷え)が何ものにも代え難い『命の水』だったこと。
「キツい………こりゃ大変だ………でも水ウマァ…」
この日は暑さはさほどでもないが、風があまり吹いていなかった。
体を動かして汗をかいても、風がないので体温が下がらない。
よくよく考えれば、熱中症への階段をみんなして登っているようなものである。
「体の動かし方を緩めないと……」

区長さんが再び現れて、お話をしてくれる。
最初は被災についての話だったが、話の趣きが変わってくる。
「この辺りの海産物って言えば、牡蠣、ホタテ、ホヤ、鮭……そうそうタコも有名なんだ、知ってる?」
話が始まると止まらない。
でも、ちょっと和んだ。

「この青い網みたいなものは何ですか?」
町中至る所に散乱している、目の細かい網で出来た袋状の物体のことだ。
魚釣りの道具の『フラシ』にどこか似ている。
これが水田の大物瓦礫に大量に絡み付いて、ちょっとやそっとでは外れない。
「刃物持っているヒトいなかったっけ?」
実は、荒事を想定して鉈を持参していたワタクシだった。
叩いて切るより、ノコギリ引きした方がスマートに切れるようだ。
絡み付く電源コードも鉈で対処。こちらは叩き切りで。

ちなみに青い物体は、
「ホタテの養殖に使うものです」とのこと。

「あ〜息苦しい」
防塵マスクが煩わしくて、早い段階で外してしまった。
幸いだったのは、この周辺があまり臭くなかったことだ。
ハエもいない。
町に大規模な水産加工場がなかったからかもしれない。

PM12:00頃(正確な時間は失念)
「お昼にしましょう!」
銘々で購入した素敵なコンビニランチタイムだ。
『命の水』も大いにいただく。

食べた後、トイレを借りに区長さんのお宅へ。
実は、民宿を経営していらっしゃる。
『体験型農漁家民宿 やすらぎ』という宿名。
瓦葺きの美しい立派なお宅だが、あと2、3メートル水かさが増していたら、大変なことになっていたというお話を聞くことに。

語り手は、区長さんの奥様。
「津波は22メートルあったそうです」
「一回目の波で、あらかた流されました」
「波が引く時は普通港の底が見えるはずなんだけど、いっこうに見えない。実は第二波が港沖の小島の外まで来ていて、引いた波がこれとぶつかり合うんです」
「波同士がぶつかり合う時に、流された物が噛み砕かれるような、何て言うのかな、何とも言えない音が聞こえるんです」
「ここに30人くらいで避難していたんだけど、その音のせいでもうみんな眠れなくなってしまって……」
津波は数回やって来たそうで、その恐怖感は筆舌に尽くし難いものだったそうだ。

「予約されたお客さんの分の食材を買う直前だったので、食料がすぐ尽きてしまって、庭の井戸水でなんとか凌いでいました」
数十日(正確な数字を失念、申し訳ない)この状態が続く。
庭まで津波がもし来ていたら……。

「この上を自衛隊のヘリが何度も通っていったけど、全然気づいてもらえず………」
ライフラインも道も破壊されて、完全に陸の孤島に。

いつのまにか、トイレ休憩に来た20人ほどのボランティアが、おかみさんを囲んでいた。

「私たち、綺麗で豊かな空も緑も海もみんな持っていたけど、『心』だけ持っていなかったんです。お金とか目先の幸せのことしか考えていなかった」
「でも、みなさんが体を張って色々なところからお手伝いに来てくださることが、どんなに心強いことか………」
「人を思いやる『心』をね、これからは持たないといけないですよね」
思いが溢れ言葉が止まらない。
周りの聞き手たちの嗚咽も止まらない。

PM13:00を大分過ぎ
「遅れてすみません」
「ああ、いいんですよ。トイレ渋滞になるのは分かっていたから」
「いえ、みんなで区長さんの奥さんのお話を伺っていたので」
「それは良かった。それも我々の仕事ですよ」

-作業再開-

自分の作業とペースを作らねば。
と、視線が水田の上の無数の瓦に。
思わずクラっとなった。
瓦は、水田の土の中に反埋没状態にあるため、手で引きはがすのが一苦労だった。
おまけに数が多く、当然重い。

おもむろに、瓦の下に鉈をヘラのように差し込み、クイっと引き起こす。
「!」
実に簡単。
「こりゃええわい」
クイっ。スパっ。クイっ。スパっ。
やり始めたら夢中になってしまった。
そして、次の休憩の時には、またもやヘロヘロになっていた。

次のターンでは、ペースをやや抑えてみた。
そして次のターンでは、他の方に替わってもらった。
体力コントロールってのは、なかなか難しいもんだ。

「あれ、何だ?」
木の上の方、地上から10数メートルのところに、どこかで見たようなものが引っかかっていた。
クルマの一部か?
少し横に廻ってから眺める。
一部じゃなくて、軽トラそのものだった。
荷台の後端部分だけが見えていたのだ。
しかし、さすがにもう驚かなくなっていた一同であった。

PM15:00を大分過ぎ
「あと10分で終了で〜す!!」
「ようしあと10分! みなさん頑張りましょうぉ!」
「おぉ!!」
一瞬、ほんの一瞬だけ気持ちが昔に帰った。

ラストスパートで、ネコ(手押しの一輪車)を往復しまくる人。
細かい破片状の残骸を集める人。
残っていたちょい大物をやっつける人。

「終了で〜す!!」

結局片付けたのは、水田を数枚、民家の跡地数件分。
担当した人足は、茅ヶ崎からやってきたチーム約20名(推定)、レーベンチーム約30名、それとボランティアセンターから来た方数名。
ケガ人なし。

PM16:00を大分過ぎ
着替えてから、バスの前で記念撮影。
ボラセンに一度寄り、帰路につく。
南三陸町を再び通過。
町としてはこちらが大きい。瓦礫も当然凄まじい量だ。
「瓦礫の問題か………」
今後の大きな課題の一つとして、尋常ではない量の瓦礫の問題がある。

PM17:00〜18:00頃(大体この時間帯<どんどんアバウトになってきます すみません)
宮城県登米市迫町北方にある『ヴィーナスの湯』でひとっ風呂。
「時間あんまりないから、長湯はご勘弁を………」
と、レーベン社の方。
予定ではPM22:00につくば着だったのだが、時間が押して到着が怪しくなってきたらしい。
ほんとに『ひとっ風呂』だった。

PM22:40頃
レーベン社の方々によるミラクルな運転で、無事つくば駅到着。
「おつかれさまでした」
「また、よろしくお願いしま〜す」
別れの挨拶もそこそこに終電に向かう。
一つの目的のもとに集まり、行って目的を果たし、帰って来てぱっと分かれる。
シンプルなところが実にイイ。
(いいねボタンを思わず押したくなるよね)

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エピローグ〜電車内にて

リーダーと少し会話。
「レーベン社社長は宮城出身なんですよ」
「今回のことで自分に何ができるかって、考えた末にボランティアバスを出すことにしたそうです」
「まぁ、たまたまあのバスを持っていたというのも、あったみたいですが」

そう、あの観光バスは社長の私物なのである。
仲間内でこれに乗って遊びに行ったりしてらっしゃるそうだ。

「あと1台買っちゃったそうだし、今度からは2台体制になるみたいですから」

ご自分でも運転をなさるほど、そもそもバスがとてもお好きらしい。
とは言え、ご自分の趣味と目的がガッチリとタッグを組んだ、驚くべき好例と言えよう。


さて、来週は大船渡行きが決定している。
「おでってさ行きますから!」

ビタミン計画は、明日で活動2ヶ月目に入ります。まだまだ、賛同者様募集中です。目標は、『緩やかで風通しの良いグループによる息の長い支援』 是非ご一緒下さい。
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 【ビタミン計画】 発起人 飯塚めぐみ
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